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さらばコカ・コーラ(私の履歴書 最終話)

こんにちは。

モチベーションLAB所長です。

この「私の履歴書」シリーズは当初の予想をはるかに超えた長い話となりましたが、今回が最終話となります。

ではよろしくお願いいたします。



 

病変見つかる

2008年1月にCCWH人事グループマネジャーに就任したわけですが、ちょうどその頃にちょっとした異変が体に見つかりました。

左足の付け根部分(鼠径部というそうです)に親指の半分ほどのコブのようなものができたので、ちょっと気になり近くの病院で診てもらったところ「粉瘤」との診断を受けました。

粉瘤とは、皮膚の下に皮脂などの老廃物がたまった良性腫瘍のことだそうで、大きくなったら切除が必要だということでした。

ただ、やはり気になるので、別の病院でセカンドオピニオンを求めたところ、同じ診断だったので安心していたのですが・・・

このコブは時が経つごとに大きくなり、半年ほどで拳の半分くらいにまで成長していました。ピチピチのズボンだとそのふくらみが分かるほどです。

さすがにこうなると切除手術も必要かと思いながら、ちょうどその頃は(前回の私の履歴書で述べた)新しい人事制度の設計や労働組合との折衝が佳境を迎えていて、気分的にも物理的にもその責任者が会社を休むということは許されないと思い、そのまま放置をしていました。

 

 

左鼠径部軟部悪性腫瘍

新制度が完成し導入できたところで上司(副社長)にこのことを報告し、入院や手術の具体的な相談をするため、大阪の自宅近くにある比較的大きな病院に行くことにしました。2009年の2月頃のことでした。

この頃には、そのコブはほぼ拳の大きさと同じくらいになっていました。

 

しかし、医師の初見は「ただの粉瘤とは思えない」とのことで、「当院では詳しいことが言えない。大きな病院へ行って欲しい。紹介状を書く」ということで、東大阪市総合医療センターへ行くことになりました。

この段階で1年前の2軒の病院での「粉瘤」との診断は誤っていた可能性が高くなり、ただ事ではない感じていました。

 

そして、市立総合医療センターにてCT検査の結果、「悪性腫瘍の疑いがある。国立大阪医療センターに専門医がいるので、そこへ行って欲しい」ということで、その場で診察予約を取ってもらい、すぐに国立大阪医療センターの整形外科を訪ねました。

同センターで半日をかけて様々な検査を受けたところ、告げられた病名は「左鼠径部軟部悪性腫瘍」、つまりガンでした。

さらに、かなり進行した悪性グレードの高いガンだそうで、病床が空き次第、すぐに入院して手術を受けて患部を切除する必要があるとのことでした。

医師からの説明では、この病気の5年生存率は60%程度で、多くの場合、肺にガンが転移するので気を付けないといけない(転移がないかどうかの監視が必要)とのことでした。

 

 

約2か月の離脱

2009年、CCWHは、CCWJ・近畿コカ・三笠コカを吸収合併し、コカ・コーラウエスト株式会社と組織を改めました。

これにより、CCWHの人事グループマネジャーだった私は、そのまま新会社の人事部長に横滑りとなりました。

しかし、部長としての最初の3ヶ月ほどが経過した時、ガンの手術・入院、そしてその後の療養のために約2か月ほど会社を休ませてもらうこととなりました。このため、人事部長として新入社員の前で訓示を述べることは叶いませんでした。

幸いにも手術は大成功で、患部はきれいに切除され、約1ヶ月で退院することができました。

その後は自宅で療養しておりましたが、松葉杖を使えば歩けるものの、動作はかなり制限されていたこともあり通勤が難しい状況でしたので、結局は自宅療養は一か月かかり、職場に復帰したのは梅雨に入る頃でした。

 

 

仕事が全うできない状況

その後も当面は1ヶ月に一度の通院が必要で、その度に肺のレントゲンを撮り、肺転移がないかどうかの確認が続きました。これが大きなストレスでした。

人事部は福岡と大阪の両方にオフィスを置いていたことや、労働組合の事務所が大阪・福岡・広島・奈良に点在していたこともあり、当初よりこれらの地域を行き来しながら人事部長としての仕事をこなしておりましたが、復帰後のしばらくの間は大阪をメインの勤務地にして、必要なときに福岡に行くのが限界でした。

これはこれで楽なのですが、人事部長職はやはり机に座っているだけで務まるほど甘くはありません。

上司(副社長)からは「当面は人事部長の代理を務めてあげるから、静養しながらの仕事でいい」と言ってはもらえましたが、高い給料をもらっている以上、いつまでも甘えるわけにはいきません。

この頃から少しずつ退職を考えるようになりました。

 

なお、その後も肺転移は無く、術後10年が経過した段階で、主治医のK先生から根治の判定が下りました。

今なお元気で暮らせているのはK先生はじめ、国立大阪医療センターのスタッフの皆さんのおかげです。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

早期退職制度

その年の夏が終わるころ、経営統合により組織の効率が進んだことにより余剰となった人員の取り扱いが議論されました。

そして出した結論は「45歳以上を対象とした早期退職者の募集」でした。

この結論に関しては、人事部長として直接的な責任はないものの、「余剰人員を退職させることで解決する」というのは整理解雇の一つです。

実際の解雇と異なるのは、対象者を指名していないことだけで、体のいい解雇であることに何ら相違はありません。

当該退職者には退職金の上乗せが行われましたが、これは「会社からの働きかけ」に応じることによって得られるインセンティブのようなもので、特段にお得感があるわけでもありません。

こういった早期退職制度はこれまでにも何度か行われていて、その年度の業績には特別損失という形で影響はあるものの、以降は人件費という固定費が明らかに減るので楽にできる利益創出手段と言えます。

これも経営施策の一つといえばそれまでですが、個人的には好ましい手段とは思いませんでした。

そしてこれは明らかな人事施策ですから、人事部長としては心が痛む出来事でした。

 

 

単身赴任へのネガティブ感

この頃、今後も単身赴任生活が続いていくことに対してのネガティブな気持ちが収まりませんでした。

コカ・コーラウエストホールディングスが出来て、私が人事企画チームマネジャーとして赴任することになった時、ある方から「いずれ本社は大阪に統合することでCCWJ側と話はまとまっている。君の単身赴任は一時的なことだから」と聞いていましたから、数年間で単身赴任生活は終わるのだろうと考えていました。

しかし、コカ・コーラウエスト株式会社の発足に合わせて、旧CCWJの本社を全面的に建て替え、大阪本社機能を福岡の新社屋に集約することが決定していましたから、単身赴任は数年で終わるどころか、この先も永遠に続くことが確定していました。

 

ならば家族を福岡に呼び寄せればいいじゃないかという声もありそうですが、この2年前に自宅を建て替えており、母とも同居しておりました。

また、長女が高校生1年生、長男が中学生1年生でともに私立の学校へ通い始めたという事情もあり、家族を呼び寄せるのは現実的では無かったのです。

そもそも就職活動のとき、自宅から通える会社として選んだのが近畿コカ・コーラボトリングでしたから、会社が合併して単身赴任生活になるのは「話が違う」わけです。

 

 

さらばコカ・コーラ

このように

  • 病気再発への不安
  • 大阪の病院に通院しなければならないこと
  • 早期退職制度への小さな心痛
  • 単身赴任への忌避

など様々な思いがあり、加えてコカ・コーラウエストの新人事制度設計と導入の激務で心身ともに疲れ果てていました。

こういった事情が重なり、2010年の春に退職することを決意しました。

大好きなコカ・コーラを離れることは断腸の思いであり、悩んで、悩んで、悩み抜きましたが、ここで決断しないと絶対に後悔すると思い、決断に至りました。

 

問題は新しい仕事をどう探すかということでしたが、この頃お付き合いのあったコンサルタントW氏にこんな話をしてみたら、「退職されるのなら、お手伝い頂きたい仕事がある」ということで、その方がサポートしておられる会社の人事制度設計の仕事を紹介してもらえることになりました。

コカ・コーラの元人事部長という肩書がどこまで通用するのか不安ではありましたが、

「これまでの多くの経験で培ったスキルは絶対に活かせるはず」

「自分を信じて新しいフィールドで頑張ってみよう」

との決意で、20年間務めたコカ・コーラを離れ、人事制度コンサルタントとして再出発することとなりました。

 

 

最後の仕事

退職を決意したことを最初に報告したのは、この年からコカ・コーラウエスト株式会社の代表取締役社長に就任されていたYさんでした。そして、予想通り強い慰留がありました。

「社長の権限を行使してお前の退職願いは受理しない」と、有難くも悩ましい言葉もありましたが、最後には納得して頂き快く送り出してくださることになりました。

この時点で私の退職が正式に決定しました。

この後、多くの皆さんから、送別の宴を開いて下さる旨の申し出を受けましたが、おそらく泣いてしまうと思ったので、その殆どをご辞退し、静かに退職することとしました。

 

そして最後の日、社長室に呼ばれました。

Y社長は「お前に最後の命令がある」と言って、たくさんのサインが書かれたラグビーのジャージを私に手渡しました。

コカ・コーラウエストには、(当時)トップリーグに所属するラグビー部「レッドスパークス」があり、その監督は全日本の監督も務めた向井さんという方でしたが、Yさんのご友人で、大手監査法人の経営陣に名を連ねるHさんという方がレッドスパークスの大ファンだということでした。

Yさんは、そのHさんから、向井監督はじめレッドスパークスの選手のサインが入ったジャージが欲しいと言われていたそうです。

そして「このジャージをHさんに届けて欲しい。これがお前に対する俺からの最後の指示だ」とおっしゃいました。

 

指示でも命令でもなんでもなく「監査法人には多くのクライアントがあり、その中にはお前の人事のスキルを必要とする会社もあるだろう。Hさんと面識を持っておけば、そういった紹介も期待できるだろう」というYさんの親心でした。

これがコカ・コーラ社員としての最後の仕事になりました。

 

 

あとがき

ということで、全13話にわたり、「私の履歴書」を纏めてみました。

ほぼイニシャルでしたが、多くの方にご出演頂きました。この場をお借りしてお断りとお礼を申し上げます。

 

コカ・コーラでの20年間には、良くも悪くもたくさんの想い出がありますが、それが成功体験でも、逆に挫折であったとしても、今の自分の仕事を支えているのはコカ・コーラ時代に培った経験とスキルです。

当然、コカ・コーラを退職した後の研修講師としての仕事や、人事制度コンサルティングの仕事を通じて得たことも多々ありますので、過去の経験の上に積み重ねた現在進行形の経験とが上手くミックス出来て、今の仕事に活かせているのではないかと感じています。

 

この13話の中では、私の強みも弱みも、成功も失敗も、高揚感も挫折も全てありのままに書きました。

図らずも長い話になりましたが、少しでも吉川和利という人間を知って頂ける一助になったのなら、これに勝る喜びはありません。

 

最後までにご購読いただき本当にありがとうございました。

 

(おわり)

 

 

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